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フルグラ、じゃがビーなど カルビー主要ブランドを手掛け続けるヒットメーカーの法則とは!?「網干弓子氏×中川悠介氏」スペシャル対談【前編】
2022.12.21
ヒットメーカーの法則

フルグラ、じゃがビーなど カルビー主要ブランドを手掛け続けるヒットメーカーの法則とは!?「網干弓子氏×中川悠介氏」スペシャル対談【前編】

成長著しいオートミール市場を制するのは誰だ?流行を生み出した成功体験者だけが知っている勝利の法則にその答えがある!?“ヒットメーカーの法則”とは食品業界で成功をおさめたキーマンと 各界で流行を生み出したプロデューサーの会話から次の食カルチャーを創造するヒントを紐解く 至極のクロストークコンテンツ。

今回はこちらのおふたりをゲストにお招きしました。

20年以上のキャリアで名だたるブランドを育成した業界屈指のマーケッター

カルビー株式会社 マーケティング本部 オーツ麦チーム

ブランドマネジャー 網干弓子氏

ブランドマネージャー 網干弓子さん

1974年、大阪生まれ

大学を卒業後、カルビー株式会社に入社。1年間の品質管理の仕事を経て、入社2年目よりマーケティングに従事。さやえんどう、おさつスナック等のロングセラー商品を担当後、2006年Jagabee(じゃがビー)のマーケティング担当となり、全国発売に従事。2011年より1年間育児休業の後、2012年~フルグラのマーケティングを担当となり現在に至る。

Kawaii文化を世界に知らしめた凄腕プロデューサー きゃりーぱみゅぱみゅ、中田ヤスタカ所属 ASOBISYSTEM代表

アソビシステム株式会社

代表取締役 中川悠介氏

1981年、東京生まれ

大学在学中から様々なイベントを主催し、2007年にアソビシステム株式会社を設立。「青文字系カルチャー」の生みの親。日本独自の文化である“HARAJUKU CULTURE”に焦点をあて、ファッション・音楽・ライフスタイルといった、原宿の街が生み出すコンテンツを成長させ、イベントプロモーションやアーティストマネジメントなどを通じて世界に向け発信している。内閣官房「クールジャパン官民連携プラットフォーム」構成員。

今回の「前編」では、カルビー株式会社 マーケティング本部 オーツ麦チーム ブランドマネジャー 網干弓子氏が“ヒットメーカー”になられるまでのバックグラウンドから、現在“ヒットメーカー”として活躍されている現状について、アソビシステム株式会社 代表取締役 中川悠介氏にお話をナビゲートしていただきます。

―編集部:はじめまして。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

網干さん& 中川社長:よろしくお願いします。

編集部:では、中川社長から網干さんへご質問をお願いします。

中川社長:わかりました。

―中川社長:まず、網干さんのご出身はどちらですか?

網干さん:大阪です。大阪といっても色々ありますが、みなさんがご存知のキタやミナミという中心街ではなく、大阪の北側、緑が豊かな、新興住宅地の北摂という地域の出身です。

中川社長:千里中央とかそっちの方ですよね?僕、昔 千里セルシーでよくイベントをやっていました。

網干さん:そうなんですか!?千里セルシーは子供の頃、よく行きました。

―中川社長:幼い頃、好きだったものはありますか?

網干さん:イメージにはないかもしれませんが、実は運動が好きで父に野球を教えてもらっていました。父も野球ファンなので、親子で野球が大好きです。

中川社長:大阪出身といえば、やはり阪神タイガースでしょうか?

網干さん:そうですね。西宮球場が近かったので、最初は阪急ブレーブスの応援に行って、それから甲子園球場に行って…みたいな感じで。自分も小学生の時にソフトボールのチームに入っていたので、やっぱり野球は大好きでした。髪型もショートカットにして毎日真っ黒になって練習していましたね。逆に音楽や芸術とは無縁で運動ばかりしている子でした。

中川社長:当時はソフトボールが盛んだった時代ですよね。

網干さん:そうですね。当時は女の子だと選択肢がソフトボールしかなくて、もし野球のチームに入っていたらプロ野球選手になりたいとか思っていたかもしれません。

中川社長:中学、高校も続けられたのですか?

網干さん:小学校の時に朝から晩までソフトボールをやり尽くしてしまったので、中学生からは違うことをやりたいなと思って。母が元々国体選手だったので、今度はその影響でテニスを始めました。これは行ける!と思って、これまた真っ黒になりながら3年間テニス部に所属していました。

―中川社長:では、青春時代に1番熱中したものはスポーツ?

網干さん:熱中したものって、自分で考えても「あれ、なんだったんだろう?」という感覚なのですが、中学も高校も部活動での集団行動だったこと、団体戦などではチームプレーの重要性が共通事項で、みんなで一緒に熱中してずっとやり続けたスポーツは青春時代の思い出の証になると思います。

中川社長:そう考えると、当時培った集団行動やチームプレーの経験が、大企業であるカルビーさんでのご活躍につながっているのかもしれないですね。

―中川社長:影響を受けた小説、映画、音楽などはありますか?

網干さん:沢木耕太郎さんの小説「深夜特急」です。大学生の時にこの本に出会ったのですが、当時は頻繁に海外に行くような時代ではなかったのに、深夜特急を読んでからはバックパッカーになりたいと憧れていました。結局、父も母も心配してバックパッカーの夢は叶わなかったんですが(笑)

それからも、何かあった時には深夜特急を何回も読み直しています。社会人になって入社した際も、みかん箱2個くらいで東京に出てきたのですが、深夜特急は一緒に持ってきていました。どんなところでも生きていけると心強く思わせてくれるので未だに持っています。

中川社長:まさに、勇気が出るための人生のバイブルと言っても過言ではないですね。

網干さん:そうですね。なにかあるたびに読み返すと勇気が湧いてきます。

―中川社長:影響を受けた人物はいましたか?

網干さん:父です。強く意識していた訳ではなかったのですが、野球を教えてもらったりしていたので、その指導の中で多くの影響を受けていると感じます。あと、父は食品の事業に携わっていた人なので、小さい頃から色々と美味しいものを食べさせてもらいました。それは今にとても繋がっていると感じます。

中川社長:食品会社に入りたいと思われたのも、お父様の影響なんですね。

網干さん:今考えてみるとそうだと思います。

―中川社長:学生時代のアルバイトは何をされていましたか?

網干さん:中高生までは将来先生になりたいと思っていて、アルバイトで家庭教師や小学生の塾の講師をしました。進学塾ではなくて、家庭的な感じで子供たちに寄り添って、とにかく子供のペースに合わせて教えるような塾の講師を3年くらい。いまの仕事で役に立っていることだと、2年半くらい新聞社の販売促進部でアルバイトをしていたことですね。初めて社会の中に入ったので、会社ってこういうものだということを新聞社で学びました。

中川社長:新聞社の販売促進って、どんなことをするのでしょう?

網干さん:事務処理のお手伝いだったのですが、様々な部署でお手伝いの業務があって、色々な世界を見る経験ができました。例えば編集部のお手伝いに行くと 夜勤明けの人がいっぱいいるなとか、号外が出るとなると「じゃあ、今からヘリコプターに乗って行く!」みたいなパワフルな人が沢山いました。
だから高校野球の優勝校が決まると、号外を持ってみんなその地区にヘリコプターで飛んで行っていました。

中川社長:ヘリコプターで号外を持って行くってすごいですね。

網干さん:だからあまり遠くないところが優勝してほしいなって思ったりしてました(笑)こんな感じで、早くから“会社”というものを知れたのは新聞社の仕事のおかげです。

中川社長:学生っぽくないアルバイトですよね。配達員のアルバイトはできても、新聞社の中で勤務できるって、そんな貴重なチャンスは巡ってこない。

網干さん:そうですよね。新聞社って、親族や知り合いの関係で入ることが多い気がします。セキュリティがとても厳しいですし。私は友人の親戚がその新聞社にいたので、友人と一緒に働くことができました。楽しかったですし、とてもいい経験ができたと思っています。

―中川社長:それでは、仕事編のご質問へ 初めてのご職業はなんですか?

網干さん:新卒で入社してから、ずっとカルビーです。

中川社長:カルビーさんに入社された理由は?

網干さん:何がしたいのか?改めて考えた時に 日常生活の中で“人を楽しませたい”ということが大きかったです。塾のアルバイトをしている時にも、教えている子が問題を解けた時に喜んでいると自分も幸せな気持ちになれたので、日常の中で人が喜ぶようなものを作りたいなと思って食品会社に入社しました。

中川社長:ヒットメーカーとして“人を楽しませたい”という思考と資質は絶対条件だと共感します。

―中川社長:これまでに挫折された経験はありますか?

網干さん:できるだけ、挫折をしたと思わないようにしています。

中川社長:それって本当に大事ですよね。

網干さん:とはいえ、やっぱり新しく出た商品の売上がぱったり止まってしまったりすると辛いですね。今振り返れば、それは単なる踊り場だったんだなとは思えるのですが、その時は何をしてもうまくいかないというか、やればやるほど近視眼的なことしかできなくなっていた。その経験を活かし、挫折をしたと感じない思考へ誘うことを心がけています。

あと仕事以外だと、20歳の時に阪神大震災にあったことです。当時は神戸の大学だったのすが、親友を亡くしてしまいました。昨日まで元気に会って「今年はこういうことをしようね」と、あたりまえに話していた人物が、元気で年齢が若くても突然いなくなってしまうことを実感しました。その分「ちゃんと生きなきゃ」と人生観が変わる経験でした。逃げてくる人々とか今まで見たことのない景色が目の前に広がっていて、自分が毎日乗っていた電車が脱線したのを見た時には、私も死んでしまっていたのかもしれない。人生って1日で簡単に変わってしまうんだなって思わされました。だからこそ日々を大事にしなければと。

今の仕事にもつながるのですが、当たり前の日々でも明日何が起こるかわからないから、若さで刹那的に生きるのではなくて、小さなことからコツコツと日々を本当に大事にしなきゃいけないと感じました。今でも少し落ち込んでしまったりすると、当時の気持ちを思い返すようにしています。

中川社長:それは人生のターニングポイントにも近いですね。

網干さん:そうですね。本当に20歳の時に自分の人生感が一番変わりました。

―中川社長:これまでに手掛けられたヒット商品を教えてください。

網干さん:私は元々理系で、新卒でカルビーに入社してから1年ほど品質管理の仕事をしていました。

中川社長:え!?マーケティングのお仕事なのに理系出身なんですか!意外です。

網干さん:当時は農芸化学とかが流行っていたのですが、私は農業工学を学んでいました。

中川社長:かなり特殊な分野ですよね。

網干さん:そうなんです。本当に女性が少なくて、300人くらいの授業でも女性が2~3人しかいないこともありました。農業工学は加工技術とか山の開拓などかなり分野が広いのですが、その中でも私は食品工学を学んでいました。それで初めは一応理系なので品質管理の配属で、2年目から商品企画になりました。それから20年以上ずっとマーケティングに従事しています。

最初に担当したのは、今年で50周年を迎えたロングセラー商品のサッポロポテトなどを扱う部署。

次の担当がじゃがビー。2006年にじゃがビーを全国販売するということで担当になったのですが、じゃがビーは創業者でもある名誉会長が手がけた最後の商品で、非常にプレッシャーを感じる担当でした。

その後、2012年からはフルグラを担当していて、こちらは社内でも比較的長い期間を費やしてブランドの育成を担っています。

―中川社長:ヒットを生み出すと言う感覚はどんな感じですか?

網干さん:発売してすぐにヒットに至ると言うよりは、長いスパンで育成し、成長してくれた商品が多いので、どちらかというと苦しい道のりも多く、のちに振り返ってみると「あれ?こんな売り上げに育っていたっけ!?」と言う感覚も多いです。カルビーはプロダクトアウト型で展開するケースが多いので、商品をどのように世の中に伝えて行くかのストーリーが重要だと考えています。伝え方ひとつで、反響が全く違ってきますから。

―中川社長:ヒット商品が生まれるまでの道のりをお聞きしても良いですか?

網干さん:わかりました。「じゃがビー」は0の状態から携わっていたので、その事例でお話しします。

まずはなんといっても、命名することから始まりました。「じゃがビー」ってじゃがいもの“じゃが”とカルビーの“ビー”で構成された商品名なんですよ。“ビー”を付けるって本当にすごいことなんです。なんといっても「カルビー」の“ビー”をもらっているので。

95年に発売した「じゃがりこ」が大ヒットして、当時の社長からも「じゃがりこ」と同じことをしてはいけないと言われていたので、大変な責任と重圧を感じ、とにかくさまざまな角度から 「じゃがりこ」と違うを視点で商品コンセプトを考えました。

「じゃがりこ」は当時女子高生がターゲットだったので、「じゃがビー」はもう少し上のF1層(20〜34歳の女性)をターゲットにしました。カルビーの社員からしたらどういうこと?と思ったのですが、グループインタビューで「ポテトチップスを買うのが恥ずかしい」というコメントがずって気になって、そんな大人の彼女たちが家に置いていても恥ずかしくない大人向けの商品を作ろうと考え、世に生み出すことができました。

中川社長:誰もが知っているカルビーの名作ブランドの誕生秘話を直接お聞きすることができて、純粋に感動しました。網干さんというヒットメーカーが子供の頃からどんなことに影響を受けてきたのかというバックグラウンドのストーリーも、とても興味深かったです。ありがとうございました。

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取材・文章/渡辺恵伶奈(Oatmeal BUSINESS 編集部) 取材コーディネート/(兼松株式会社 穀物部) 構成/毛利努(MORRIS STRATEGY & DESIGN CONSULTS,LLC.